月夜のひまつぶし

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幕末 歴史

坂本龍馬の妻、お龍というひと/彼女は偉大な夫の功績を知らなかった?

投稿日:2018年6月25日 更新日: 閲覧数:276

坂本龍馬の妻、お龍/彼女は偉大な夫の功績を知らなかった?

この記事を読むのに必要な時間は約 13 分です。

スマホの人気アプリ、FGOことFate Grand Orderの期間限定イベント「ぐだぐだ帝都聖杯奇譚」で追加された坂本龍馬の宝具という扱いでお龍さんも登場しています。
坂本龍馬については誰もが知っているでしょう。
しかし、お龍についてはそこまで知らない人の方が多いのではないでしょうか。
そこで、きちんと調べてみました。

お龍という人

お龍は本名を楢崎龍といいます。
父親は楢崎将作で、元々は長州藩士でしたが将作の祖父の代に除籍され、京都で医師として開業してからは医師の家系となっていたようです。
将作は皇族である青蓮院宮尊融法親王という人のおつきの医師となったくらいなので、腕が良かったのでしょう。
しかし、尊王攘夷を掲げる志士達と仲良くしていたために、安政の大獄で捕らえられています。
翌年には釈放されたとか、釈放されずに獄死したとか、その後の将作についてはあまりはっきりしません。
ですが、安政の大獄で捕らえられた医師の娘と龍馬が結婚した、と思うと何となくしっくり来るような来ないような、不思議な感じがします。

お龍のことに話を戻しましょう。
彼女が生まれたのは1841年7月23日で、龍馬が生まれたのは1836年1月3日ですから、年の差は5歳ほどですね。
生まれた場所は京都で、そのまま京都で育ちます。
父親が皇族のおつきの医師、侍医を務めていましたから家は裕福だったようです。
おかげでお龍は茶道や華道などを学んでいました。
教養のある女性だった、ということが言えそうですね。
ただ、料理は苦手だったようです。

将作が安政の大獄で捕まり、数年後に亡くなると家計が一気に苦しくなります。
その上、母親が悪い人に騙されてしまい、妹が島原や大坂に売られることに……。
これを知ったお龍は、着物を売り払ってお金を作り、刃物を持って大坂まで出かけると威勢よく啖呵を切って男2人から妹を取り戻したのです。
教養があるだけでなく、肝の据わった女性でもあったんですね。

その後のお龍は旅館で働き、母親と末の妹は尊皇攘夷を掲げる土佐藩士達の隠れ家でまかないをするようになります。
坂本龍馬と出会う前から、お龍も波乱万丈な人生を送っていたようですね。

龍馬との出会い

そんなお龍が龍馬と出会ったのは、1864年の5月頃。
この時、龍馬は30歳、お龍は24歳でした。
2人が出会ったきっかけは、母親と妹が働いていたのが尊皇攘夷を掲げる土佐藩士達の集まる隠れ家だったこと。
京都洛東三十三間堂の南側にある大仏南門通、京都市東山区塩小路東大路西本瓦町の辺りにあったその場所で、母親と妹が住み込みで働いていたので、お龍はよくそこを訪れていたのです。
お龍が働いていた旅館も近くにあったので、気軽に立ち寄りやすかったんでしょう。
妹が売られると聞いて、自分の危険もかえりみずに派手に立ち回ったくらいですから、お龍や妹は仲が良かったに違いありません。
とにかく、そうして母親と妹に会いに寄っていた場所で、龍馬と出会うことになるのです。

龍馬は途中から尊皇攘夷をやめていますが、最初は土佐勤王党に参加していました。
尊皇攘夷の土佐藩士達が集まる場所に龍馬が出入りしていたのも、自然なことですよね。
時々、まかないの女性を訪ねてくる娘と龍馬が出会い、仲良くなっていったわけです。

2人が出会った時のエピソード

龍馬とお龍が出会った時、まずはお互いに名前を聞きます。
お龍は自分の名前を紙に書きますが、龍馬はこれを見ると自分の名前と同じだ、と笑ったそうです。
実にいい感じですね。
出会いからもう何となく、結婚しそうな雰囲気がします。

こうして出会った2人は、龍馬がお龍の母親に結婚したいと申し入れ、同意してもらって結婚することになりました。
祝言を挙げた、つまり結婚式を挙げたのは8月1日だそうで、5月頃に出会ったというのを考えると、結構スピード婚だと言えるのではないでしょうか。

有名な寺田屋事件

1866年1月22日、龍馬が奔走して薩長同盟が実現しました。
その翌日、あの有名な寺田屋事件が起こるのです。
ちなみに、岡田以蔵が処刑されたのは1865年7月3日ですから、この時にはもうこの世にいません。
土佐勤王党もほぼ壊滅状態になっています。

寺田屋があるのは京都市伏見区で、京都市の南の方にあります。
龍馬は元々この寺田屋の女将、お登勢と懇意にしていたのでお龍をここに預けていました。
その際、お龍は「お春」という偽名を使っています。
龍馬はただでさえ敵が多く、役人にも追われていました。
とてもどこかに定住できるような状況ではなかったでしょうし、お龍も本名で堂々とどこかに住むのは危険です。
龍馬の妻なのですから、お龍が何かしたわけではなくても、居場所を聞き出そうとして誰かが捕まえるかもしれません。
そういったことを避けるため、お龍も身を隠していたのでしょう。

現在の寺田屋(再建されたもの)

現在の寺田屋(再建されたもの)


お風呂に入っていたお龍が、外にいた役人に気付いて2階にいた龍馬に急を知らせた、という有名なエピソードがこの寺田屋事件です。
ただ、寺田屋事件と言うと実は2つあります。
同じ場所で2度も幕末の事件が起きているんですから、忙しいですよね……。
お龍と龍馬が関わっているのは、寺田屋遭難とも呼ばれている事件になります。
寺田屋事件のことについては、こちらで詳しく書いています。

良かったらあわせて読んでみてください。

寺田屋事件の頃の2人

この事件が起きた頃、2人は、というか主に龍馬なんですが、色々と苦労していたようです。
たとえばある日、往来を2人で歩いていると、新撰組の姿が見えました。
新撰組と言えば、幕府側の組織です。
龍馬は尊皇攘夷、倒幕を掲げる長州や薩摩と懇意にしていましたし、外国から銃を買い付けるなどもしていました。
そんなことをしたのですから、当然幕府には追われる立場です。
新撰組の姿を見た龍馬は、慌てて隠れてしまいます。
お龍はさぞかしびっくりしたでしょうね。
一緒に歩いていたら、いきなり旦那さんが隠れてしまうんですから。

また、幕末の四大人斬りの1人、人斬り半次郎に寝床を襲われたこともありました。
かと思えば、お龍に惚れた新撰組の局長、近藤勇がお龍にかんざしや櫛を買ってきた、なんていう話もあります。
お龍は美人で通っていましたので、そういったことがあっても不思議ではないでしょうが、近藤勇がその相手だというのは興味深いですよね。

日本初の新婚旅行へ

龍馬は日本人で初めて新婚旅行に行った、とされていますが実のところ新婚旅行しようと思って行ったわけではなさそうなんですよね。
というのも、寺田屋事件で龍馬は両手を怪我していて、西郷隆盛の勧めで治療のために薩摩へ旅行に出かけた、ということのようなのです。
そう、2人が行ったという新婚旅行は、結婚してから2年ほど経過してからのことなんです。
行き先は薩摩。
大坂から船で薩摩へ向かい、1週間足らずで到着したようです。
2人は温泉を楽しみ、滝を見に行ったり狩りをしたり、それなりに旅行を満喫していた様子。
その時、霧島山にある天の逆鉾を見るために高千穂峰に登りますが、2人はそこに突き立っている天の逆鉾を抜くというイタズラをしたそうです。
テンションの上がりすぎた観光客のようなことをしていますが、かなり楽しんではいたみたいですね。

薩摩に来て3ヶ月ほどたった6月のこと。
傷が治った龍馬は、船で長州へ向かうことになります。
そこでお龍は途中にある長崎で船を降り、長崎の豪商である小曾根英四郎という人のところに預けられました。
旅行の帰りに分かれて別行動、というのは少し寂しい気もします。
翌年の2月に下関に龍馬が借りた家へ移りますが、龍馬とはこの後あまり頻繁には会えなかったようです。
この年、1867年9月に下関へ龍馬が寄港しますが、この時に会ったのが2人が最後に会った日となりました。
その2ヶ月ほど後、11月15日に龍馬が暗殺されてしまうからです。
知らせが届いたのは12月2日。
お龍は知らせを聞くと、髪を切って仏前にそなえ、号泣したといいます。

日本初の新婚旅行、と言われている旅行ですが、2人が落ち着いて一緒にいられた最後の時間だったのではないでしょうか。
下関でも2人で過ごす時間はあったでしょうが、龍馬はまたすぐ出かけなければならなかったでしょうし、あまりゆっくりはできなかっただろうと思います。
そう思うと、何だか切なくなってきますね……。

お龍はどうして龍馬の功績を知らなかったのか

ここまで、お龍がどういう人で龍馬とどう過ごしてきたのかを見てきたわけですが、タイトルにもある通り、お龍は龍馬の功績について一切知りませんでした。
明治政府から聞かされて初めて龍馬が幕末に何をしていたのか、やっと知ることになります。
しかし、自分の夫のことなのに何故知らなかったのか?
すごく気になるところですが、答えは一言で終わってしまいます。

それは、興味がなかったから
驚いたことにお龍は、龍馬の仕事にも事業にも、全く興味がなかったのです。
ちょっと信じられないような話ですが、事実のようです……。
これもある意味、肝が据わっていたから、と言えなくもないでしょうが。
何ともすごい女性です。

龍馬が亡くなった後

お龍は、龍馬が亡くなってからはあまり良いことがなかったようです。
1868年3月に龍馬の実家へ送り届けられますが、義兄と不仲で坂本家を3ヶ月ほどで出ていってしまいます。
龍馬には乙女というお姉さんがいましたが、乙女さんには親切にしてもらっていました。

その後、妹の嫁ぎ先へ身を寄せますが、結局ここにもいられなくなって1869年には土佐を出ています。
この時、龍馬とやり取りしていた手紙を「他の人達には見せたくない、2人だけのものにしていたい」と燃やすよう依頼し、このために龍馬とお龍の間でやりとりされた手紙は1通だけを残して全て失われてしまいました。

土佐を出ると寺田屋のお登勢を頼って京都で暮らし始めますが、すぐに京都にもいづらくなってしまいます。
次は東京へ出て、勝海舟や西郷隆盛を頼ることにしましたが、西郷隆盛はこの頃、ちょうど征韓論の後で面倒を見ると約束してくれましたが果たされることはありませんでした。
その代わり、お龍に20円を支援してくれています。
当時の20円ですから、それなりの金額です。

その後もあちこちを点々とし、ようやく再婚しますがこれも上手くはいかなかったようで、段々とお酒に逃げるようになってしまいました。
お龍は龍馬の仲間たちからの評判が良くなく、「美人だけれど意見しても聞き入れない、品行が悪い女性」という人もいました。
結局、龍馬が亡くなった後もお龍に親切にしてくれたのは、お登勢、勝海舟、西郷隆盛だけだったのです。
しまいには、夫に先立たれた妹を引き取って面倒を見ていたら、再婚相手と妹がお龍を置いて2人で暮らし始めます。
最終的にお龍は、ある退役軍人に保護され余生を送ることになったのでした。

1906年に66歳で亡くなりましたが、お墓を立ててくれる人もなかなかいません。
亡くなってから8年経って、ようやく妹が施主となってお墓を建立します。

再婚相手とうまくいかなかった主な理由は、お龍がいつまでも龍馬を忘れられなかったから、ということのようです。
龍馬を失ったことがお龍には耐え難かったのでしょう。
ずっと彼を想い続け、お酒に逃げるようになってしまった彼女の気持ちを考えると、非常に悲しいものがあります……。

FGOでは坂本龍馬と2人1組になっていますが、2人が出会ってからのことを思うと、ひたすら「良かったね…」と言いたくなりますね。



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