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FGOで岡田以蔵が来る、と聞いたのでこれは黙っていられない、と思わず書きました。
幕末で最も好きなのが彼、岡田以蔵なのです。
天誅の名人と呼ばれた彼ですが、一体どんな人物だったのか、書いていきます。
土佐勤王党のメンバーだった
武市瑞山こと武市半平太がリーダーだった土地勤王党ですが、以蔵は龍馬と共にこの初期メンバーとなっています。
土佐勤王党は名前の通り、尊王攘夷派でした。
後に抜けて独自に活動を始めた龍馬と違って、そのまま攘夷運動を続けた武市や以蔵の結末は、想像に難くないでしょう。
龍馬は投獄されたわけではありませんが、暗殺されているので、そういう意味では3人共悲劇的な結末を迎えたと言えます。
主に京都で活動していました。
当時、志士達は京都に集まっていましたからね。
しかし、以蔵は途中から酒や女に溺れて借金を繰り返していたそうで、段々と他の志士達と距離ができてしまいます。
いつしか武市から見放され、龍馬からも見捨てられ、身を持ち崩した以蔵は投獄されます。
そして、拷問された彼の自白によって土佐勤王党のメンバーが次々に捕縛されたという話もあります。
しかもその時の拷問は、女性でも耐えたようなものだったと言います。
それでも以蔵は泣き喚き、自白してしまったのです。
そのせいで、武市から日本一の泣き虫だなんて言われたくらいです。
後世の創作では、以蔵はずっと拷問に耐えていたとするもの、毒殺されかけたことがきっかけで自白したとするもの等、様々です。
史実での以蔵がどうだったのかは、史料が少なくはっきりしない部分も多くあります。
それでも、意外と創作で主人公になっている作品があるのは、不思議ですよね。
辞世の句を見ると、すごく尽くすタイプの人に見えるのですが、実際はどうだったのでしょうか。
暗記しているので、最初にどこで見たのかはもう覚えていません。
もしかしたら、司馬遼太郎の「人斬り以蔵」かもしれません。
かなり同情的に書かれているので、私のイメージもそのせいで良くなっているのかもしれませんね。
この作品では、ひたすら武市に尽くしていたのに、報われずに捕縛されて毒を盛られそうになった人として描かれていますから。
四大人斬りの1人
幕末で人斬りとして有名なのは、4人います。
そして、四大人斬りと呼ばれているのですが、以蔵もその1人です。
もっとも、この四大人斬りは当時からそう呼ばれていたわけではありません。
後世の創作で人斬りと呼ばれ、広まっていったのです。
四大人斬りは次の通り。
・岡田以蔵
土佐出身で人斬り以蔵と呼ばれていました。
1838年2月14日生まれ、1865年7月3日没の享年28歳。
・河上彦斎
肥後出身で人斬り彦斎と呼ばれ、佐久間象山らの暗殺に関わったとされています。
1834年12月25日生まれ、1872年1月13日没の享年38歳。
「るろうに剣心」の緋村剣心のモデルはこの人。
・田中新兵衛
薩摩出身で人斬り新兵衛と呼ばれ、武市と義兄弟の契を交わしています。
以蔵とともに本間精一郎の暗殺に関わっただけでなく、天誅が続発するきっかけとなった最初の天誅を行ったとも。
1832年生まれ、1863年7月11日没。
・中村半次郎
薩摩出身で人斬り半次郎と呼ばれ、他の人斬りと違って西南戦争に参加して戦死。
1838年12月生まれ、1877年9月24日没。
たくさんの暗殺に関わった
以蔵が関わったとされている暗殺のターゲットとなった人は次の通りです。
井上佐市郎、本間精一郎、宇郷重国、猿の文吉、渡辺金三郎、森孫六、大河原重蔵、上田助之丞、多田帯刀、池内大学、賀川肇。
中には、本当に以蔵が関わっていたかどうかはっきりしていない、という暗殺事件もあります。
また、逆に誰がやったか分かっていない暗殺事件の中にも、以蔵が関わっていたものがあるかもしれないと言われています。
暗殺ですから、おおっぴらに誰がやった、と宣伝するわけもありませんので、当然と言えば当然です。
誰がやったのかを明言しなければならない暗殺、というのもありますが。
基本的に、「天誅」として行われていますからね。
なかなかに複雑だと思います。
本間精一郎が暗殺された場所の近くに、以蔵がつけたとされる刀傷が今も残っています。
私も見に行きましたが、その時は運悪く入口の扉が閉まっていたので、中まで入って見ることができませんでした。
せめて、と思って本間精一郎が暗殺された場所の立て札と場所を示す石碑を撮影して帰ってきたのですが、まさかこんなところで役に立つ日が来ようとは。
京都には、こういった石碑がそこかしこに見られます。
それだけ、京都には歴史が多いということなのでしょう。
もし以蔵のつけた刀傷を見に行きたい、という方がいらっしゃったら、こちらが参考になると思います。
京都新発見サイト 逸都物語 – 岡田以蔵刀傷 ~ 暗殺者、岡田以蔵が付けたとされる刀傷
くれぐれも、刀傷は触らないようにしてくださいね。
摩耗して見れなくなってしまったら、ファンが悲しみます……。
冗談でも何でもなく、新撰組の屯所であった八木邸でもガイドさんが注意するくらいです。
坂本龍馬と親交が深かった
これに関しては、創作ものも多く見てきているので多少ごっちゃになっている部分もあります。
しかし、坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛をしたというのは確かです。
勝海舟が浪士3人に襲撃された際、岡田以蔵が1人を斬り、一喝したことで残りの2人が逃げたというのです。
以蔵がいなかったとしても、誰かしら護衛についていた可能性はあるでしょうが、彼がいなければ歴史が変わっていた可能性だってあるわけです。
この時、勝から「人殺しは良くない」とたしなめられたそうですが、以蔵は自分が斬らなければ貴方は今生きていなかったでしょう、というようなことを言って返したそうです。
言っていることは間違ってはいませんが、これまでに何人も暗殺してきたことを考えると、色々考えてしまうやり取りですよね。
この時は確かに勝を守るために人を斬ったわけですが、それまでの暗殺はそういうわけではありませんから。
では今まで以蔵が人を斬ってきたことは、どう説明するのかと思ってしまいます。
主張が違うから、自分達のやろうとしていることを邪魔しているから、という理由でなら人を斬っても良かったと思っていたのかどうか。
勝からは、フランス製のリボルバーを贈られました。
今も残っていて、以蔵の弟の子孫が持っているそうです。
ちなみにこの頃、以蔵は他の土佐藩士達と疎遠になっており、そのまま龍馬達と仲良くしていれば、彼の最期もまた違っていたかもしれません。
最初から武市よりも龍馬と仲良くしていて、ずっとそのままでいれば以蔵は良いことをして、名前を残していたかもしれないとも思うのです。
良いこと、と言っても護衛以外ではあまり思いつきませんが。
武市の命で暗殺を繰り返していたような行動を見ていると、あまり賢い人だとは思えず……。
それでも、もしかしたら龍馬の暗殺を防いでくれたかもしれない、なんて考えてしまいます。
「歴史にifはない」なんてよく言いますが、言いたくなるのがファンだと思うのです。
結局、この後以蔵はまた武市の元に戻ってしまいます。
小山ゆうの「おーい!龍馬」では、龍馬や武市と幼馴染として子供時代も描かれていました。
小山ゆうは、「あずみ」で有名ですね。
坂本龍馬大好きな武田鉄矢が監修しています。
以蔵は少し出っ歯で、小汚い印象の人物として描かれています。
実際に出っ歯だったそうですが、土佐の牢番のコメントなので、どこまで本当なのか。
以蔵の最期
尊皇攘夷を掲げて活動していた志士達は、相当な数の人が捕縛されています。
さらには処刑された人も少なくありません。
何人も暗殺し、天誅を下してきた以蔵を待っていたのも、そういった末路でした。
彼は拷問されて自白してしまっていますから、言い逃れもできません。
彼の自白のせいで、何人も捕縛されているので仲間内からも毒殺の話が出ていました。
しかし、武市が消極的だったことと、以蔵の親族が許さなかったことから、実現はしなかったとされています。
なお、捕縛されたのは京都でしたが、その後土佐に送り返されています。
1865年の7月3日に打ち首獄門とされました。
お墓は今も高知にあります。
場所など、詳しいことはこちらが参考になります。
岡田以蔵の墓 | 坂本龍馬人物伝
FGOでは、どのような人物として描かれるのか、楽しみです。
以蔵の辞世の句は、以下の通り。
この句を見て、彼が本当はどんな人だったのか、考えてみるのも良いかもしれません。
「君がため 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空」